未完の姿で完結している
「未完の姿で完結している」
これがかなり自分の中でグッときたのでまとめる。これは『「探究」する学びをつくる』の222ページ伊那小学校の教育目標と同時に語られている文章の一つで、元伊那小学校教諭の「詩」であり、昔から伝えられている。
全文はこう
未完の姿で完結している
ああでなければならない
こうでなければならないと
いろいろに思いをめぐらしながら子どもを見るとき
子どもは実に不完全なものであり
鍛えて一人前にしなければならないもののようである。
いろいろなとらわれを棄て
柔らかな心で子どもをよく見るとき
そのしぐさのひとつひとつが実におもしろく
はじける生命のあかしとして目に映ってくる。
「生きたい、生きたい」と言い
「伸びたい、伸びたい」と全身で言いながら
子どもは今そこに未完の姿で完結している。
生徒をみるときだけでなく、自分が属しているチーム以外をみるとき、周りをみたとき、どうしてもダメなところがすぐに目につく。しかし、完全な人、組織なんてない。常に未完であるし、成長途中である。そう思うと現状をおもしろく思えるのではないか。組織として行動していくときも、少しゆとりを持って動けないか。
例えば、伝統芸能など職人の技が必要な職業であれば確かに経験が物をいうということもある。しかしこの場合であっても今まで狭い視野では考えられなかったその技能を用いた新しいプロダクトができるかもしれない。知的労働者ではなおの事、新人だから、新しく異動してきたからといってすべてが拙い考えではないはず。学校では、特に高校では何十年と在籍している先生がいるが、その人の鶴の一声ですべて決まっているなんてことはないか。「未完の姿で完結している」を、自分は「そのときそのときの思いや考えを年齢や性別、人種に関わらず皆お互いに大事にすべきである」と捉えました。子どもだってそのときそのときで懸命に考え、行動しているのです。例えば、小学生低学年が遊んでいたけど、喧嘩してしまった。大人からしてみたらしょーもないことなので、仲介して終わらせることはできる。しかし、当事者は当事者なりに懸命に考え、解決しようとしている。それでいいのだと思う。教員の若手がアクティブ・ラーニングや探究について研究し、実践している。確かにベテランからしたらよくわかんないし指導も通っておらず大した授業になっていないかもしれない。他にも、長いことその学校にいた人からすると、その学校の歴史に反する考えを職員会議で発言したかもしれない。しかし、その若手は未完の姿で完結しており、そのときそのときで懸命に考えている。それをお互い尊重できるか。おもしろがれるか。まずその若手の思い、考えを傾聴できるか。そのうえで逆の立場の意見を言えるか。その関係性の構築を目指していくことで風通しの良いチーム、成果をあげる組織になっていくのではないか。
生徒のことだけでなく、自分に周りのことも含め、いろいろと考えることがきた。良い言葉に出会えたと思う。未完の姿で完結している。4月19日。