I wanna go to alps.

教育のことしか書きません。たぶん。

子どもと子どものいざこざ

 色々と経緯があるのですが...人の子を叱りますか、どこまで子ども同士のいざこざに大人が介入しますかって話。今回は全くの他人ってわけではない、義理の姉の子。

 

 少し前に自分の子の靴を悪意を持って踏みつけたので叱ったって経緯があって、当時うちの子1歳7か月、あっちは4歳。許せんなと思ったので叱ったのですが、こっちの親に対して色々と思うこともあったので何というか...この子に対してもちゃんと育ててやろうという意識にはなれない。ぶっちゃけこの子がどう育とうと知らん。なので、叱った後のフォローについて親に話すことはなかった(あまり現場を知らない父親に経緯は話した)。まぁ過去の話。

 

 昨日は久しぶりに会ったのですが、子ども同士では何もなかったですが、次は僕の靴を踏みつけてきた。自分が踏まれても大して何とも思わないですが...自分が親ならその行為は許さないかな。

 

 最後は子どもと大人の話でしたけど、今回考えたのは、子ども同士のいざこざって大人が解決するもんじゃないと思うんですよね。友達同士で~~遊びしたい、私は~~がしたいとか言ってるのはほっとけばいい。暴力はダメだけど、そういったことは経験を積んで学べばいい。けど、人として馬鹿にしたり、攻撃したやろうって悪意には大人が介入した方がいいのかな。これさえも、例えば中学生になったら介入すべきではないような気もする。いじめにまでいったらダメだけどそういった悪意もどう対応するかって学べばいいような気もするし。ただ何歳以降なら関わらない、年齢じゃないなら発達段階でどういうところまでいったらすぐには関わないとかってそれぞれの親の感覚があるので難しいですね。今回はまだ幼児なんで入りましたけど...じゃあいつまで介入しますかって話で。職員室ではよくあの親は子離れできてないとか聞くわけですけど、親になってみればいつ子離れするもんなんだろう...って思いましたね。3月13日。

細々と感じたこと3本

1.権限を持つこと 

 来年度から分掌長ですが、もはや現時点でその仕事をしております。その方が来年度のためになるのでだいたい今の時期にやらないといけない仕事を引き受けているのです。

 権限を持つとやれることが増えます。なので、面白みも感じています。任せられることはやっぱり意気に感じますしね。やりがいがあるわけです。と、同時に矢面に立つことになるんだなと思った次第です。イラつくことも増えました。全体の場で嫌なつつかれ方をされたり、馬鹿にされたりしたわけではないですが、批判の対象にはなる。計画・立案に対して責任を持つわけですからね。さらに言うと、学校の正規採用の中で下から2番目くらいに若いので、まぁ言ってしまえば舐められるわけです。とりあえず1回目に「これは舐めてかかってきたな」と思ったときには(なんかよくわかんないけど、「ここのところハッキリさせてください(キリッ)とかぬかしてきたんで)パパッと内容を考えて徹底的に説明にいきました。10分休みに入った瞬間にその人のところにいき、授業なんでいきます、でまた休み時間になったらまた説明する、みたいな。最終的には笑顔で対応しつつ何をなよなよしとんねんはよこの2択から決めろや(口に出してはない)って感じで終わり。舐めるのも大概にしていただきたい。

 今日は別の人が「あんたそれ本気で言うてんの?考えて物いいや」とかぬかしてきたんで「はーい、あ、この返事考えて言ってないですけど」と流しましたがどうやり返すか考えよう。敵を作るつもりはありませんが、舐められたらやりづらいんでね。お互い敬意を持ちましょうってだけです。

 

2.異動する人

 異動したいってのは諸事情あるので好きにしたらいいですが、はやく出たいと言っていたのにいざ異動が決定したら、ようやく慣れてきたのにとか、仕事が中途半端な部分があるから申し訳ないとか、一体何を言っているんだろうと思います。ようやく慣れてきたのに、はさすがにウケました。いやあんた出たがってたやんって(笑)。そんなん言うくらいならはじめから現場をよくしようと考えて動けって話で。別にたいしてそう思ってないのに何言ってんのかなー。軽い言葉が嫌いなだけです。

 

3.自分は変わらないということを主張する人たち

 高校は今年度から観点別評価が入ったわけですが、これだとこれがよくない、こんなんできない、はやく上にこんなんやめろと言ってくれとか言うわけですけど、よくもまぁそんなことを恥ずかしさもなく言えるなぁと思った次第です。正直やりようはあります。そもそもどんな意図でこれを導入するのかさえ勉強してない(多分)のが恥ずかしいです。生徒は授業で新しいことを勉強するのに、それに対してやりたくないってばっかり言ってたり、変化することに対してただただ拒否してたらそれじゃだめだって言うでしょう。変化できない人に育てたいわけじゃないですよね。確かに新しいことなので時間はかかるし、処理量が増えているのでそれも良いことではない。が、そもそもやろうとしてないのにぐだぐだやらない言い訳ばっかりしてんじゃねーよ、が思ったことです。なので、教務ではないですが今年度観点別を自分の授業ではこうやりましたっていう会をやりたい人でやろうかなと思います。何人集まるかな。

 

以上。そろそろ高校入試ですね。3月8日。

 

教師はどこまで教える人なのか

 年配の先生でも当然質の高い授業はあるのはわかっているのですが、、、たまに年配の先生がその授業の内容を50分語りつくして半分の生徒は寝ている授業を廊下からチラッと見る。当然どこまで進むとか、今日の内容の肝はどこかとか、それはあると思う。では、今後間違いなく教師よりも困難な時代を生きる子どもたちのことをどこまで考えているかといったら...疑問が残る。自分はその授業の一部分しか見ていないので単元としてどう位置付けられていて、この後どんなパフォーマンス課題があるかは知らないけど、まぁでもあるならあるでもう少し雰囲気は違うと思う。

 

 

 教師の第一の仕事は目の前の子どもたちを成長させることである。これだけはぶれない。しかし時代によってどのようなことを学ばせてから社会に出ていかすべきかということは変化する。ただテストの点が取れて次の学校へ、会社へ送り込めばいいわけではないのである。しかも社会は複雑化してきているといろんなところで言われているわけで。国際化なり情報化なり、まぁそんなところ。つまり教科書の内容がわかるだけでは物足りないと言われているわけだ。実際、教科書も変わってきていて、ただ内容の説明だけでなく、このような実験をした結果こんなデータが出た、ではこれを解釈してみましょうとか、この内容は日常のこの部分に関連しているとか。この内容にALを加えて機能させよ、という意図がよくわかりますし、良い内容だと私は感じている。

 

 堀先生はよく、時代は不可逆だと言ってらっしゃいます。さらに生徒も保護者も、自分より年代が下の若手教員も、消費者精神で学校と関わるでしょう。授業だってそれこそ一斉授業のみをする教師ならアンケートの結果がとても低く返ってくる時代がくるでしょう(多分一部そうなってます)。そこで自分は、教員は変われるかという話です。この本ではネガティヴな感覚にとらわれること、意見が対立したこと、考えたくなる設定のもとで思考してみること等の経験を通し、さらに自分の考えのみならず友人とどのように考えたかまで含めて省察することで生徒に自己の変容を促そうとする、その原理・原則、堀先生の考えの提案がまとめてあるわけです。生徒に変われとはたらきかけるのに教師である自分が変わらないのなら、響くはずがありません。そんな言葉は生徒は簡単に見抜きます。この本を読んで一番感じたことは、最も変わるべきは生徒の前に立つ教員だよ、まとめてみたからとにかくやってみなよということでした。

 

 ALについては結構勉強してきたので、知っていることも多かったがよくまとめられているので今まで何気なくやっていたことが堀先生はこんな風に考えていたのかとか、これが抜けていたから機能させられなかったのか等、考えさせられた。記述が分厚いので、今後もよくチェックしていく本であることは間違いない。

 

222ページのあとがきを引用して終わり。

『たぶん「AL」とはそういう営みなのだと思う。他者を認識することは確かに「私の中の他者」に閉じられている。その意味で他者を自己の世界観の範疇を超えて理解することはできない。しかし、他者による刺激が介在することで自分自身の世界観が広がることはあり得る。そしてその世界観の広がりが「私の中の他者」の広がりをもたらすのだ。

 ただ一つ言えることは、世界観の広がりはそれを求める人にしか訪れないということである。私たちは子どもたちを世界観の広がりを求めることに導かねばならない。』

 

2月28日。明日は卒業式だ。

 

教職の愉しみ方 授業の愉しみ方

 

 最近は堀先生の本ばかり読んでいることもあり、主張が結構わかる。保護者のみならず教員だって消費者精神で生きている者が多いこと、力量がそもそもないのにコスパを意識してなかなか成長しない若手などなど。過去の自分に当てはまっていたこともあるし、いまの自分にだってギクリとすることもあるし、あぁ、あの人は全然教職を楽しんでいないなと手に取るようにわかる人もいる(先輩でも)。でもどうせやるなら、65くらいまでの起きている時間の大半をおそらく仕事で過ごすのならば、その時間は充実させたいもんじゃないですか。労働というのは確かに苦労して時間を売ることで対価を得ている側面がある。しかし、それだけではない。特に教師なんかはそりゃ苦労したりいらいらすることも心配になることもしょっちゅうで、ブラックな職場と言われるわけだけど、生徒と馬鹿話して笑ったり、嬉しいことだってある。チームで一丸となって危機を乗り越え、成果をあげて、解散しても事あるごとに理由をつけて集まって飲んで楽しい時間を過ごせる仲間もできた。本当に良い仕事だと思う。そんな風に思っていても、さらにこんなことで愉しめるよという提案がこの本である。一部紹介しようと思う。

 

 第1章 子どもとのかかわりを楽しむ 15ページ

 『「もっと厳しくしなきゃあ」を手放すのは不安です。手放した後、どうやって学級を束ねるべきかと思うからです。しかし、「束ねる」というのも「言うことを聞かせよう」とするのも、教師の身勝手な思惑です。自分の仕事を自分に都合よく回そうとする発想で教師が自分の側にしか立っていない見方です。』

 

 宇野さんの本はこれも読んだ。

 

 

 ピシっと、なんというか話す人の前で黙ることが正解みたいな感じはあるんですけど、それだけじゃないよねと宇野さんの本を読むと思えます。もちろん、何でもいいってことではないんですけど。教師のキャラクターもあるわけで。荒れているクラスと思われたくないっていう考えは特に小学校には多いのではないでしょうか。

 

 30ページ

『堀 「肩の力を抜く」ってのは僕も大切なことだと思うんだけど、新卒から肩の力が抜けていたわけじゃないですよね。

中略

宇野 私の場合は、二人目の育休明けじゃないかなあと思います。元来完璧主義なところがあって、きちんとさせなきゃと思いがちなところがあるんですよ。でも小さい子二人育てながら学級担任をしていると、何もかも完璧になんかできないんですね。今日は手抜きご飯とか、お部屋が散らかっているとか。急に子どもが熱を出して予定通りに仕事が進まないとか。それでいて予定通りにならなくても、別にたいしたことないんです。ちゃんと毎日はつながっていく。そういう毎日を過ごしているうちに、私一人の力なんて知れてるなあと悟り始めて、少しずつ肩の力が抜けてきたと思います。』

 

 宇野先生の根底にある考えなのだと思う。それこそ全部完璧にしようと思っていたら確かにはじめはできるかもしれないけど、すぐに息切れしちゃって続かない。割り切りだって大切。子育てをしていると普段の生活でも本当にいろいろな制限が発生するわけですけど、だからこそ時間を大切にしようとも思うし、うまくいかなくて当然、次はこれを試すとか思える。その制限は悪なだけではないのですよ。制限があるからこそどうするかと考えることもできる。

 

 さて、明日はAL授業10の原理・100の原則のブログを書かないといけないので、もう切り上げちゃうんですけど(笑)、堀先生の部分を一つ引用したいと思います。教職経験が浅い人はみんなこの本を読んだらいいと思う。本当に。

159, 160ページ

『人は見たいものしか見ないものです。見たくないものは見えないようにできています。他人の意見を聞くということは、自分が見たいものしか見ていないということに気づかせてくれます。言わば「議論」というものは、互いの「死角」を指摘し合い、その「死角」に目を向ける今後の自分をつくっていく営みです。従って自分に「死角」があることを認めない者、自分に「死角」があることに気づいていない者は批判されると落ち込みます。私が冒頭の初任の先生を「自分は完成された一個の個人であり、全人的に尊重される権利がある」と揶揄するのもこの一点に尽きます。私が「完成された自分」と呼ぶのは、自らに「死角」があることが意識されていない人間、という意味なのです。残念ながら、「死角」だらけなのにそれを認めない人間を存在として尊重することはできても、その認識を尊重はできません。あなたは自分の「死角」に気づく必要がある。そう指摘される場が研究授業の研究協議なのです。』

 

 Twitterでは批判の対象になる研究授業。でも、若い人なんかは研究授業をするといろいろダメ出しを食らうのは当たり前なんですよ。だって見えていないのだから。見えていると勘違いしているのだから。昔の人は働き方改革なんてもんもないわけで、時間をかけまくって研究授業して、指摘され、そして成長してきた。今の若い人は自分も含め働き方改革の流れもあり、こういった機会は減っている。へたしたらパワハラだって言われる。研究授業なんてもういらないでしょって言う人だっている。現状3年目以降、指導案だって書いていない。さて、これでいいのか。よくないですよね。だって見えていないんだから。堀先生の言うように、見えていないことに気づいていない人も多い(先輩でも正直、いる)。自分は、見えていない世界が見れるようになりたい。そんな風に思う周りの人や若手が増えるように頑張りたいと思う。多分、教職はその方が愉しいはず。2月27日。

 

ピアノと文化

 ピアノコンサートなるものに行ってきました。初めての経験です。曲をあまり知らないので(笑)、聴きながら入り込むんじゃなくていろいろ考えてしまうんですけど、そのことをまとめます。

 

 ベートーヴェンの曲を演奏されましたが、これが作られたのは200年前ということになります。200年って...。つまりこれまでに何人もの人がそれを聴き、演奏し、先生が教え、そしてまた新しい人が聴き、感動し、また演奏する人がいて...を繰り返してるわけです。そこには人の思い、歴史があって、多くの人を巻き込んできて文化になってきたわけで。自分は山登りが好きなので、例えば松本城にいったときなんかは後ろに美しい常念岳があるんですけど、この松本城常念岳の美しい風景はこの城ができたときからあるんだなと、昔の人もきっと美しいと感じただろうなんて思ったわけです。ベートーヴェンや、ショパンモーツァルトを聴いて、昔の人も美しいと思ったり感動したりして、弾けるようになりたいと思う人、またこの人の演奏を聴きたいと思った人など、きっといろいろな影響を与えたのだなぁと感じた次第です。文化っていうのは人に何某かの影響を与えて、触媒となって作用するものなのかなと考えました。

 

 さらにもう一つ。作曲という業について。作曲って完全に自由なわけですよね。確かに響きの良いメロディってあるのかもしれないけど、でも言ってしまえばこのメロディの後にどの音を入れるかなんてのは自由なわけです。でもそこにはきっと作曲者の考え、思いがあるはず。まぁいいか、というノリでそのメロディや音を置いているわけではないでしょう。少なくとも、そこに深い検討があったからこそ良い曲になり、人に認められて何百年も残る作品になっているはず。

 

 この本の章に教材研究を楽しむ-国語編-があり、詩について書かれた部分があるのですが、助詞の検討をしている部分がありました。「コーヒーがいいわ」というか「コーヒーでいいわ」と言うか、これで全然意味が変わってくるわけで。その詩だって助詞一つで背景だって変わってくる。そこが読めるか、そこがこだわれるか。曲についてもそうですし、授業についてもそうですし、学校ではない会社の事業だってそうなのかと思いました。そしてその過程を楽しめるか。楽しめるなら、手抜きすることもないでしょう。この音の配置もまぁ、悪くないしこれでいいかと思うのか、いやまだ可能性があるはずと思うか。こういった工程がアートなのかなぁ。違いますかね?うまくいっている企業の戦略はアートであるとこの本でもありました。

 

 

 いずれはもっと今後考えていることも書こうかと思ってますけど、こういったアートな工程では自分は日本で昔からあった伝統や文化を入れたいなぁなんて思ってます。日本にいるなら、日本の良さを生かせる人でありたい。

 

 エヴァンゲリオンでカヲル君が「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ。」と言ってましたけど、歌のみならず音楽はそうですね。2月26日。あ、二二六事件の日ですね。高橋是清元総理が殺害された日。最近これも読んでいて、かなり面白い。

 

 あかん、堀先生の本あと1冊読み切ってないので読まないと...。

 

教師の先輩力

 読みました。2月中に3冊とも全部、と言いながらまだこれしか読めてません笑。

 

 

 

 基本的に学年主任を務めるような人向けに書かれていますが、若い人、育ててもらう側の人だって読めばいいと思います。一体自分の上司は何に悩んでいるのかがわかるので。例えば、昔だったら言わなくても理解しなさい、技は見て盗みなさいといった考えがあったわけです。しかし、若い人にはそのような考えを理解する人は少ない。「そんなん効率悪い」とか「ただのそっちの都合じゃん」ってなるわけです。でも、確かに昔にはそのような雰囲気があって、そうやって成長してきた人もいるわけです。そう考えている学年主任と新任とでは、そりゃ上手くいかないし、保護者からきつくクレームを言われるような事案であったり、新任が成長しないということだったり...はい、若い人も読めばいいと思います。

 さらに言えばまず一番はじめの原理は「プライオリティの原理」です。どんな内容かというと、例えば学年主任になったからといって最も優先すべき仕事は若手を育てることではなく、子どもたちを成長させるということである、です。新任で力量が無い。だから失敗は仕方がない、ではない。確かに結果的にそういうことはあるかもしれないけれど、子どもたちに損をさせたり、危険な目に遭うことがわかっているのにも関わらず、若手の成長を優先したり、若手に切ない思いをさせてしまうことに戸惑ったりしてそれを許してしまってはいけないのです。この内容を読んで自分が経験したある場面を思い出しました。あの時の自分は、先輩教員にあの場のすべてを持っていかれたことに納得がいかなかった。今でも何だか嫌な気持ちが残っている。しかし、確かにあの場は危険だった。それは自分でもとても納得がいっていて、自分で収拾させられなかったのも事実で。自分ならその後のフォローのやり方を変えけれど、あの現場の先輩の判断は間違ってなかったのだと思う。いやはや、あの場面は一生忘れないと思う...。

 

 この本を読んでいて感じたのは、堀先生なら瞬時に自分がどのタイプの若手かを見極め、適切に対処されたであろうということです...笑。例えばここ。以下45ページから引用。

『しかし、教師としての成長には先にも述べたように、「OS」の成長が何より必要です。それなのに、彼らの多くは「仕事ができるようになる」ということを「仕事をうまくまわせるようになること」「仕事を効率的にできるようになること」、要するに「仕事をうまくこなせるようになること」と捉えています。成長願望はあるのですが、それが「現象的な成長願望」となっている場合が多いのです。「コスパ世代」とでも言うのでしょうか。或いは「消費者感覚世代」とでも言うのでしょうか。それが教師としての成長を阻害している側面があります。』以上引用終わり。

 ここを読んで皆さんはどう思われるのでしょうか。僕は、ああ3年目くらいの俺...と思いました笑。本にも書き込みましたし。正直自分のあとに入ってきた新任の人にも結構この感じをあるなぁ、と思ってます。さらに106ページ。若手には「依存型」「軽薄型」「実務型」「創造型」と分類されており、その中の「軽薄型」について。以下引用。

『要するに、力もないくせに他人の意見を聞かない、自分はできているつもりでいる、そんな教師と言えばわかりやすいでしょう。今後も、「依存型」ほどでないにしても、一定の割合で現れます。』以上引用終わり。

 はい、自分は軽薄型です、すみません、と思いながら読んでました。なんか怒られているみたいでした笑。軽薄型にはできなさを自覚させ、ちゃんとできないいけない原理を習得させることが大切と書かれています。法則化運動で有名な向山さんの本とも関連してます。僕はTOSS自体は好きではないですが、この本は教師にとってとても重要な本だと捉えています。

 

 ちゃんと力を身につけないといけないと思わせ、一度どんな原理が必要かを説明し、実践させ、かつリフレクションを手伝ってこれはこうだったよね、この原理がまさに活きたところだよね、できるようになってきたじゃないか、などなど帰納的にも指導すると成長していくことが想像に難くない。堀先生は、子ども・保護者に迷惑がかからないように、って感じでしたが自分はさっきのミスもそうですが、生徒を危険な目にあわせ保護者からクレーム&校長にガチで怒られる、自分の不手際により生徒が停学&教頭にガチで怒られる、など多分大学院の同期の中で最もやらかしているんじゃないですかね...そう思うとうちの学校は若手をちゃんと育てることができないのでしょう笑。人のせいにするわけではないです。あれらは全部自分が悪い。というわけでこんな若者、堀先生からしたらすべてお見通しなのです...。

 この本と、前回読んだ堀先生の本で共通点として、リフレクション・メタ認知があげられます。

<なぜ>その指導をしたのか。これをとにかく考える。

 

 

127ページより引用『指導言というものは、<なぜ><何を><どのように>言うかという三段構えなのです。』

 

 堀先生の本ばかり読んでいるからでしょうか。このなぜ、が日常でもかなり考えられるようになってきました。自分の指導したことへのなぜ、なぜこの人はこのように発言したのか、なぜこの生徒はこういう振る舞いをするのか、等。これが自分を成長させているような気がしています。

 

 最後はあとがきより。以下205, 206ページより引用。

『どうも日本語というものが、日本人というものが歴史的大転換を迎えているように思います。それも決して良い方向ではない方へ。良くない方向というのに語弊があるなら、決して豊かではない方向へと言い換えても構いません。言葉が情報をやりとりするためだけに用いられ、情を交わす言葉や、相手を待つ言葉や、相手と戯れる言葉が世の中から急速に失われつつあるように感じられるのです。それはこの国の人々が、日本人の文化を失いつつあることと同義であるように思えます。』以上引用終わり。

 変わる日本人。それは当然、まずは若い人から現れるわけで。昔だったら言わなくてもわかるようなことだって伝わらない。強い消費者意識を持つ若手。保護者が変わったとか言うくせに、自分らだって消費者意識で生きている部分が必ずあるわけですね。

206ページより引用。

『かつての日本人の文化の根幹は、「与えること」にありました。』

 与えられることばかりを求めている人には与えられない、この国は与える者にしか与えられないと堀先生はおっしゃっています。はてさて、自分は与える人にちゃんとなれるだろうか。2月22日。

やりがいがあるか

 人の異動の話は結構ウラで情報が流れるのが職員室。デリケートな、プライベートな問題もあるのでおいそれと拡散してはいけないものですが、こういった話が好きなのも人間。ただ、ちょっと今年はいろいろありすぎる...。

 

 ええ、他府県にうつるの!、とか、ええ!部活動の希望で異動希望したの!とか。もちろん詳細は書けませんが、予想外にも異動を聞いています。ここまで聞くのは初。でもなんでこんなに異動希望するのかって話でありまして。昼食後、ぼんやり考えてました。

 

 当然家庭の事情もあるので、これさえあれば解決!ってのは絶対ないんですが、大切なのはその組織はもっと良くしたいと思える組織か、ってことです。貢献したいと思えるか。チームとして成熟しているか。やりがいがあれば、そう簡単に離れないと思うんです。楽しいから。その時間が有意義だから。むしろプライベートな時間を使ってまでも貢献したいと思える。でも、そう思えなくてただ現状維持が続き、むしろ現状維持どころかよくわからない作業が増え、一緒に困難を乗り越えるはずのチームも成長せず上っ面の関係のまま続くのであれば、嫌にだってなる。新天地にいって新しいところで、次こそは頑張ろうとも思える(ぶっちゃけこういうのは往々にして上手くいかないですけど)。人がどんどん離れていくのは我々一般教員の管理職への評価の一面でもあると思います。もちろん管理職にすべての責任を押しつけるつもりはありません。でも、管理職など、上の立場の人がこういったビジョンでこうしたい、なぜならこうだからである、その先はこんな未来があるから今はこうだから頑張ろう!と熱を持って伝えないとまとまらないと思うんですよ。特に教師は個人でやる部分が強いので、勝手に一人でやる方向に走りやすい。全体としての指針は絶対にいると思います。正直、いまは無い。こまかい提案はあるとしても、それが全体としては何を目指していて、その中の何を担っているか、というのは全くない。良い人なのはわかってます。でも、それだけなのです。

 

 さて、どうしましょう。生徒たちのために働くのが僕らです。内部で足を引っ張っている時間なんて無いんです、正直。4月から少し立場を持つわけなので、ここは頑張りどころな気がしてます。どこまでできるかな。2月15日。

 

 ちなみに、昨日のブログの人とはさらに話し、確かに担任の側面としても楽だった、でも負の側面としてはこんなところがあるよね、と話ができました。信頼してる人だったので、ちょっとショックだったんですが、やっぱりちゃんと対話できる人で嬉しかったです。良い日だ。

 

akasatanatasakaa.hatenablog.com